17世紀、一世を風靡した古伊万里
 

古美術商や美術関係では、よく「古伊万里」という言葉を使いますが、これは主として江戸の末期頃までに作られた古い有田焼のうち「柿右衛門様式」のものと、鍋島藩窯の影響を受けた「色鍋島様式」のものを除いた、他のすべての様式の焼き物を総括して呼んでいる一般的呼称で、多くは有田の無名の陶工や絵付師によって作られたものです。

当時の鍋島藩は、焼き物製造の技法や絵付の技術が外部にもれるのを極力防ぐため、商人の有田への出入りをきびしく取り締まり、商取引はすべて「伊万里」の津(つ)に限定したため、有田焼のことを伊万里焼と言うようになりました。

もともと、深い湾口を持って、玄海の水域に通じている「伊万里」の津は、そのめぐまれた天然の良港のゆえに、肥前の西部地区における物資の集散地として、商業に、貿易に、重要な役割を果たしてきた。現在、伊万里市は、周辺の町村を合併して人口約6万の市にふくれ上がり、それにくらベ、有田は町制で人口約2万2千(2006年3月現在)と小さいのですが、一本の川で連なる二つの市と町は、車で走っても20分足らずで、昔からなにかと連帯感が強い町でした。

現在では、この伊万里市の行政区画内でも、もと鍋島藩御用の専門焼成窯があった大川内山(おおかわちやま)やその周辺に窯業地帯があり、ここも伊万里焼と呼ばれていますが、これはあくまで現代の伊万里焼であって、いわゆる本来の「伊万里」や「古伊万里」ではありません。少なくとも、焼き物の歴史や美術評論や骨董の世界の中に登場してくる「伊万里」や「古伊万里」は、古い有田焼のことです。

元和2(1616)年、朝鮮の陶工・李参平が有田の泉山で白磁鉱を発見し、わが国で初めて本格的磁器焼成の産声があがりました。その後、オランダ連合東インド会社(略称:VOC)によって、中国明末の一大窯業地景徳鎮の技術や文様が導入され、同時に欧州への輸出も始まります。佐賀藩の殖産興業として手厚く庇護され、飛躍的に発展したのです。

日本が欧州と、貿易らしい貿易を始めたのは、古伊万里という有田の陶磁器であり、東西陶芸文化の交流の始まりにもなりました。17世紀半ばより18世紀初頭にかけての約40〜50年間が、輸出古伊万里の黄金時代でした。当時、およそ100万個とも200万個とも言われる古伊万里や柿右衛門様式の磁器が輸出され、それらのほとんどは、鑑賞用の沈香壺や大皿でした。輸出された古伊万里は、欧州に磁器が皆無の時、金銀財宝以外に珍重され、欧州全土を席巻(せっけん)しました。

幻の「明治伊万里」の存在感
 

有田焼は、絵文様や形式の上から大きく「古伊万里」「柿右衛門」「色鍋島」に分類されます。古伊万里ブームの陰に隠れてあまり知られていないもうひとつの有田焼が、西洋の骨董世界で珍重される「明治伊万里」。和と洋が織りなす意匠が独創的な明治中期の有田焼です。明治初期の世界の大博覧会市場で最も欧米人を喜ばせた陶磁器を供給していたのが、肥前の有田焼でした。

国をあげての輸出奨励のなか、明治8(1875)年、有田の有力窯元が結集して生まれたのが日本ではじめての会社組織「香蘭社」。さらに、明治12(1879)年には、香蘭社から大望抱いて独立した有力な陶工たちが「精磁会社」を設立。欧米に向けて優美な意匠の洋食器を手がけていったのです。

また「精磁会社」製の器は、明治16(1883)年11月28日、当時の東京麹町山下町にオープンした西洋社交クラブ「鹿鳴館」で、海外からの貴人顕官の食卓を彩り、数々の饗宴を彩ったのです。

ほとんどが輸出用に製作された「精磁会社」の製品は、国内では一般市場に出回らず、納品先は浜離宮に隣接した迎賓館や宮内省延寮館でした。現在入手が非常に困難で、まさに「幻の有田焼」と言われています。

 

1

色絵捻割地紋唐草文鉢
径21.7cm・高13cm
個人蔵

2

色絵縁間取り唐草文スープ皿
径25cm
個人蔵

3

色絵ギリ松鶴文洋皿
径23.3cm
個人蔵

     
4

色絵兜唐草連鎖文洋皿
径23cm
個人蔵
5

色絵赤濃蝶文コンポート
径24.8cm・高17.8cm
個人蔵
6

色絵地紋六方花卉文六角浅鉢
長28cm・高3.5cm
個人蔵
 
写真は全て精磁会社製
   
 
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